にかほ市平沢という日本海に面した港町に、ハタハタ寿司の製造を行う三浦米太郎商店さんがあります。今回はハタハタ寿司のことを学ぶべくお邪魔しました。
皆さんは、ハタハタ寿司という食べものをご存知ですか?
そもそも、ハタハタって何かご存知ですか…?
ハタハタとは、体長20cmほどの小さな深海魚。白身で、鱗がなく骨も柔らかいので食べやすいのが特徴。塩焼きや唐揚げにして食べられます。
普段は深海を泳いでいますが、産卵期の11〜12月頃になると浅瀬にやってきます。主に日本海で水揚げされ、秋田県も一大産地のひとつ。県内では、その産卵期を狙って水揚げを行い、「ブリコ」と呼ばれる卵を持ったメスが好んで食されます。
秋田の県魚とも言われていて、知らない人がいないほどの名物。ハタハタを原料とした魚醤であるしょっつるも、秋田の伝統的な調味料です。
寒さの厳しい長い冬の間、食料の確保が難しくなる秋田では、冬の前に沿岸にやってくるハタハタは、神様からの贈り物だと重宝されました。そこから、ハタハタは漢字で「神の魚(鰰)」と記されるのです。
短い期間に大量に水揚げされるハタハタを、冬の間も長く食べられるよう保存食にしたのが、ハタハタ寿司。秋田が得意とする発酵技術を生かした、ハタハタのなれ鮨です。
秋田県ではお正月料理として欠かせないと言われ、ハタハタが水揚げされたら家庭でハタハタ寿司を漬ける光景も見られました。しかし、手間がかかることもあってか、最近では自分で漬ける家は減ってきています。
そんななか、秋田に昔からある暮らしを守ろうと時代の過渡期に挑んでいるのが、にかほ市 平沢にある、三浦米太郎商店です。その取り組みや考えについて、この店の13代目である三浦悦郎さんにお話を伺いました。
三浦米太郎商店さんを訪ねると、ちょうど漬け込み作業の最中でした。
まずはハタハタを塩漬けして、それを一口大に切って、酢水に浸けて、そこからようやく米などと合わせて……と、見るからに作業工程が多い。これは手間がかかって、家でやるのは難しいだろうなあと、漬ける人が減っているのも頷けます。
ハタハタとともに生きる使命
-三浦米太郎商店さんは、いつからお店をされているんですか?
三浦さん
明治時代に創業し、はじめは船問屋からスタートしました。うちでハタハタ寿司を作り始めたのは戦前ですね。
-悦郎さんで13代目とは、すごいですね。
三浦さん
自分は25歳の時にこちらに戻って来ました。都市の方で働いていたんですが、父の体調が悪くなって。外に出ている間しばらく見ないうちに、この辺りも変わっていたんですよ。商売のことで言っても、取引先が変わっていてね。
ちょうどその頃、スーパーや百貨店なんかの小売店が、市場を通さずにメーカーと直接取引をするようになっていたんです。メーカーから市場を通して小売店に届けるという流通の当たり前が少しずつ崩れてきたんですよね。だからそれまであった中央市場なんかからの注文がぱたっと来なくなって。
時代の変化ですね。それに合わせて売り方や売り先なんかを変えてきました。
-帰ってきて早々、大変な局面を乗り越えられたんですね。
三浦さん
今の方がもっと大変ですよ。ハタハタ寿司を食べる人は減ってますからね。
先先代の頃からの記憶があるんですが、「何があってもハタハタの商売辞めるな」って言われてきました。どんな時代でも、ハタハタがあったからうちは飯が食えてきたからと。
-なるほど。重圧には感じませんでしたか?
三浦さん
そうですね、「ハタハタのおかげで」と考えてきたので、重苦しいと感じたことはないですね。昔から食卓にはいつもハタハタがあって。煮付けが最高でした。ブリコも美味しくて。
-秋田にとってハタハタは、神様からの贈り物だと見なされたくらい貴重な食料だったんですもんね。そんな秋田の暮らしとハタハタの関係を象徴するようなエピソードですね。
三浦さん
うん、秋田のハタハタやハタハタ寿司の文化を守っていく、家業を守っていくという使命感はありますね。
-秋田とは切っても切り離せない存在のハタハタですが、最近では獲れる量が少なくなっていると聞きます。
三浦さん
はい、この平沢漁港のあたりでも漁獲量が減っています。その影響もあって、昔はこの地区にもハタハタ寿司の製造業者が12軒あったんですが、今は2軒にまで減ってしまいました。
-それはハタハタ寿司という食文化の存続にも直結しますね。
三浦さん
最近では家で作る人も減ってきましたからね。
秋田でハタハタというと、時期になると水揚げされたハタハタを箱買いして、それを寿司に漬けて近所に配ったりして。あげたりもらったりして、ハタハタは食卓に当たり前にありましたよね。
ハタハタは漁獲量の減少によって、1992年から3年間、秋田全県で禁漁をしているんです。
秋田ではまったく手に入らないので、新潟の市場まで行くと、売っていたハタハタは韓国産。それでわざわざ韓国まで買い付けに行きました。値段も高かったんですが、それでも秋田の人はハタハタ食べるんですよね。
-「ハタハタを食べないと年が越せない」と秋田の人が言っているのを聞いたことがあります。
三浦さん
そのくらい、ハタハタは秋田に根付いた食文化ということですね。
伝統を守る、現実
-その一方で、秋田で水揚げされたハタハタは県内での消費が90%以上だと聞いたことがあります。
三浦さん
そうです。秋田はPRが下手だとよく言われますが、これまではハタハタ寿司も含めてあまり県外に向けて売り出されることがありませんでした。
-秋田の人には愛されているハタハタ寿司ですが、人口も減少しているし、このままでは消費量は先細りになってしまいますね。
三浦さん
そうですね。今は昔に比べて食も豊かになり、何でも好きなものが食べられるようになりました。そういうなかで、ハタハタ寿司という文化は、若い人たちには馴染みが無くなっています。となると、方向転換して新しいことを取り入れていかないといけません。
そういったことから、最近は百貨店での販売に力を入れています。催事に出店してほしいという百貨店からの要望も多く、県外からの需要が高まっているようです。
故郷の秋田を離れて県外で暮らす人や、秋田の人からもらって気に入った、なんて人もいますね。
-ハタハタ寿司が県外にも出て行ってるんですね!
三浦さん
その一方で、ハタハタ寿司はやっぱり嗜好品ですからね、好き嫌いもあって食べられない人もいます。だから、寿司じゃない形でまずハタハタを食べてもらえるような商品作りにも取り組んでいます。ハタハタって、あっさりした白身魚で食べやすいんですよ。
-こんなにたくさん!これらは悦郎さんが開発されたんですか?
三浦さん
そうですね、この辺はほとんど私が。
-アイデアが豊かで素晴らしいですね。
三浦さん
こういうのも、百貨店の出店で他県に行ったりするときに、他のところのやり方を学んだりするんです。
三浦さん
これは、ごはんと一緒に炊くとハタハタの炊き込みごはんになる商品なんですが、鮎の炊き込みごはんを同じようにやっているのを見つけて、真似してみました。外に出ることで勉強の機会にもなっています。
そして、ハタハタ寿司をこれから伸ばしていくっていうのは難しいので、これからはハタハタ以外の魚の加工にも取り組んでいきたいんです。
-にかほは海に面した、漁港のまちでもありますもんね。
三浦さん
うちはこの平沢漁港と共にあると言っても過言ではありません。だから、ここの漁港で水揚げされる他の魚の可能性も探っていきたいなと思っています。
-今後の道筋も見えていらっしゃって、さらに息子さんも帰って来られて希望がありますね。
三浦さん
息子はどうも、母親やおばあちゃんから「おめえ大きくなったらこの仕事やるんだぞ」って小さい頃から囁かれてきたようです(笑)
-なんと!(笑)家族の刷り込みが通じたんでしょうか…?
三浦さん
私も幼い頃、同じように言われていた気がします。
しかし息子には、外の世界を見て来てくれ、と言って、長く都市部で頑張ってきてもらいました。
そのおかげで、帰って来てすぐ即戦力になってくれて、今では営業にはすべて同行してもらっています。
これからますます、ハタハタ寿司を扱う私たちにとっては難しい時代になってくると思います。息子には、時代にあった売り方ややり方を模索して頑張ってほしいです。
-製造業者さんも少なくなっているなかで、三浦米太郎商店さんは秋田の食文化を背負う存在ですね!
三浦さん
秋田はPR下手だと言われることが多く、秋田の産品が県外に積極的に売り出されることはありませんでした。自分たちのものに自信を持てないという、しょしがり(秋田弁で恥ずかしがりの意)なんですよね。でも、もうそんなこと言っていられませんよね(笑)。
ハタハタ寿司はもちろん秋田の良いものが、もっと県外に出ていってほしいですね。自分たちのものに誇りを持って。
文化は、時代の移り変わりとともに形が変わっていくもの。
ハタハタ寿司はその局面を迎えているようです。
三浦米太郎商店さんでは、そんな難しい場面に立ち向かうべく、これまでのやり方に捉われず、新たなやり方を模索し続ける積極的な姿勢が印象的でした。
食文化はその地の暮らしから生まれたもの。
秋田の冬は寒さが厳しく、作物も育ちづらい。
そんな状況を生き抜くために、秋田にはハタハタがあって、それを先人の知恵で保存食にしたハタハタ寿司があります。
このまちの漁港や、暮らす人々とともに受け継がれてきた食べものが、これからも続いていくことで暮らしの風景も受け継がれていくのではないかと思います。
ハタハタ寿司をはじめ、ここから生まれる新しい文化が、「秋田らしい暮らし」を後世につなぐ糸口になればいいなと思います。
(文・國重咲季)